2010年4月 8日
刀狩の展開
没収された武器類を方広寺大仏殿の材料とすることが喧伝された。中世社会では、信仰の形として刀を仏にささげる行為が一般化しており、鎌倉時代には執権北条泰時が鎌倉市中の僧侶の帯刀を禁じた際に、没収した刀を鎌倉大仏に寄進すると述べている。
また、多聞院英峻(興福寺僧侶)による『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。つまり、百姓身分の者が一揆を結成して政権に異議申し立てをする物理的実力たる惣村を武装解除し、一揆の結成そのものを抑止しようとしたというのである。当時の百姓身分の自治組織である惣村は、自検断権に基づき自ら司法権とその保証となる軍事警察力たる武力を持ち、膨大な武器を所有していた、また、相互に一揆の盟約を結んで団結して、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在ともなっていたのである。秀吉は1585年には先行して根来衆や雑賀衆から武器没収を行っており(第二次太田城の戦い、刀狩)、また織田氏家臣の柴田勝家も越前国の一向一揆の鎮圧のために刀狩政策を行っている。
ただ、実際には、刀や脇差の上納と没収が名目上で展開されたのみで、祭祀に用いる武具や害獣駆除のための鉄砲などは所持を許可されるなど、刀狩の展開後も農村には大量の武器が存在したままだった。すなわち、秀吉の刀狩令によって惣村の完全なる武装解除が達成されたわけではない。また、刀狩の展開の多くは村請すなわち惣村の自検断権に基づいて実行されたケースが多い。
中世を通じて武器の所有は広く一般民衆にまで浸透しており、成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあった、そのため、秀吉は刀狩と並行して武器の使用による紛争の解決を全国的に禁止(喧嘩停止令)し、この施策は江戸幕府にも継承された。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するというを目的としたものであったとする学説が現在では有力である。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
刀狩では百姓身分の者の武器所有を禁止されました。
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